昭和40年01月07日 夜の御理解
お茶をいたします者の心がけとして、例えば、あの、茶友達の方がみえます。同じ趣味とか道楽とかいったような事に心の合うた人が来るのでございますから、二時間は三時間でも、お話は尽きません。けれども、客のほうも、ま、一時間後、例えば三時間、もう一時間ぐらい居りたいというても、一時間ぐらいは早めに帰るのが心がけと。又、招いたほうも、まだ話は尽きんのだけれども、一時間ぐらいは早く、引き止めないで帰すのが、お茶をする者のエチケットだという事になっておるんですねえ。
ところがまあ、好いた者同士の、その、集いになりますと、二時間が三時間、三時間のつが四時間にまでなって、もう夜通し、その、お話しようといったような事に、まあ、なりがちなんですけれども、さあ、あけてみてから、その、さほどに収穫がないのに驚きますですね。信心話でもそうなんですよ。そりゃもう信心の好きな者同士が集いますと、もうほんとに、夜も更けるのも忘れて話し込みます。
もう朝方まで話す。成程、それはまあ楽しい、また言うなら、信心で言うならば有難い事でもあるんですけれども、それかと言うて、さあ、何が身に血に肉になったかというと、その案外、ただあくる日は疲れたというものだけしか残らないような結果に終わってしまうんですよね。この辺が私は一つの、信心を進める上においても、世を渡っていく上においても、私は心がけるべきじゃなかろうかと。
美味しいものがあるからといって腹一杯、成程、腹一杯、人間にはそういうものがあります。けれども、頂いた後が、どうも、ずうぐるしゅうなったといった様な、ずうぐるしゅうなったんじゃ、つまらんでしょうが。それはかえって、なら、体の上にまで障(さわ)るという事にまでなってくるんですからねえ。人間の貪欲なんですね。長男がああしておかげ頂いとりましたけれども、今度は八日の青年部会に。
昨日も、福岡から全部青年の方たちがみえてから、「今度は若先生がみえとるけんで、八日の青年部会が、ま、一段と有難いものになるだろう」と。みんな、そう言うても下さり、自分もまた、そのつもりでおったんです。今夜は泰子の誕生日だったりして、みんなが楽しんどったんです。けれども私が、今朝御祈念の後に、「勝彦、今日帰らせて頂いたらどうか」と私が申しました。「ハアそうですか」と。「あの、ま、一日ぐらいはね、居りたい、又、おきもしたいけれども。
そこんところが大事なところだから」「なら、そういたします」と言うてから、すぐ帰らせて頂きました。私はここの所がですね、それを、あの、行じていく事が信心だと思うです。それはそうする事が信心だと思うんです。ね。ですから、今日はあちらの臨時総会でございましたから。けれども、親先生も親奥様も大変喜んで下さったんですね。だいたい今日は帰らんつもりだったもんですから。私、自分も気持ちがいい。私も人情としては、もう一日ぐらいおきたいけれども。
何とは無しに、さばさばとして良い気持ちなんですね。あの人もまた、その、「帰ってよかった」という様なものじゃなかったじゃろかとこう思います。だからそこん所を、もう、ちょっと控える事がですね、例えば、三杯食べてでなければ腹一杯にならんものを、二杯半でおさえる事が健康上最も良い、という事になっておるようにですたい、ね、私共はそういう所に心がけさせてもらう、そこん所を信心と、そこん所を修行と、いう事になっていかなければならんのじゃないかと思うですね。おかげ頂かなきゃいけません。